1897-1905
苫小牧戸長役場から独立
いよいよ開村へ


永谷木材と馬鉄道、早来軌道
明治37(1904)年、林業を営んでいた永谷仙松が幌内地区の豊富な森林資源に注目、愛知県から本郷地区に入植し永谷木材を設立しました。運搬は馬車などが頼りで、道内では初めて三井物産会社の所有により馬鉄道が施設されまいた。馬鉄は国有利の払い下げを受けた外国行の枕木や夕張炭鉱の坑木のの運搬として大きな需要があり、仙松 は運用を請負木材の運搬しました。
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振老に私立小学校が開校
人口増加にともない、小学校設置が望まれていました。そこで、苫小牧七か村戸長や有志数名により明治30(1897)年1月、振
老地区に初めての小学校が私立で設置されました。同年3月には苫小牧尋常小学校となり、児童は106人を数えました。大正11(1922)年には大洪水で大きな被害を受け、丘陵地帯へ移転。再建のために村の各戸から1人ずつ出て、奉仕協力をしたのでした。その後昭和39(1964)年には近代的な校舎に改築されました。

マッチ軸工場設置
明治41(1881)年、日本マッチ工業の創業者 清水誠が、北海道のドロの木を関西に運び、その質の良さが神戸を中心とした関西のマッチ工業者に広まって認められ、明治35(1902)年、当麻内にマッチ軸工場が設置されました。開村当時はマッチ軸に最適な泥の木が豊富で、大阪、神戸などに向けて出荷していましたが、明治末期には原木が減少、工場は閉鎖してしまいました。今はその跡地だけが残っています。

土地改良の第1歩
泥炭地に粘土を入れて土地改良をする客土法は、当麻内(現在の豊沢地区)が民間では初めての試みです。はじめはこの地に合う粘土がなかなか見つからず苦労したようですが、明治39(1906)年、偶然にも水田に捨てた土が稲作に合うとわかり、客土の歴史の第一歩を踏んだのでした。その後徐々に客土を行う人が増えていき、また道庁から技師がやってきて、普及に努めるまでになったのです。この客土による土地改良法は現在に至るまで受け継がれ、全道に普及しました。

石炭の試堀
明治初期に発見されていた上幌内の石炭鉱区。丘陵があり、渓谷があり、清流の美しい景勝地でもありました。石炭鉱区はその景勝地の奥でしたが、試掘を始めた当初は交通の便も悪く、採掘は困難を極めたといいます。しかし、昭和13(1938)年ついに石炭採掘に成功。日産30t、水力発電施設による電灯が炭鉱をこうこうと照らし日夜採掘にはげみました。

岡田孤鹿
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岡田孤鹿は旧福岡の藩士で、自由党代議士を努めるなど国政に参与したこともある人物です。明治27(1894)年に入村。豊丘地区一帯の払い下げを受け、造園や農場の経営に当たりました。また率先して農会の設立に当たるなど農業の発展に尽くし、教育、道路の開さく、橋の架設など公共事業も手掛けました。孤鹿のみならず、昭和16(1941)年農地開散まで岡田家三代にわたって開拓に貢献。専厚寺には墓があり、その功績がしのばれています。

厚真神社
明治28(1895)年、宇久留田(現在の字朝日)に八幡宮を建て礼祭を行ったのがはじまりです。境内には、大正7(1918)年に当時の厚真村在郷軍人分会が有志を集めて建立した戦没者忠魂碑があります。また、昭和60(1985)年には創立80年を迎え、記念碑、銘石が据えられました。

野安部説教所とアカマツの木
明治30(1897)年、野安部説教所が開設されました。住職は敷地にアカマツの種をまき、木の苗は檀家などの庭先に植えられたのでした。アカマツと寺の存在は、開拓期の人々が困難を乗り越えていく心の支えとなっており、100年目を迎える今でも、下草刈りなどの手入れは地域の人が行っています。現在は小径木も含め30種類以上、400本の樹木が茂っています。